自分がアメリカに渡ったばかりの時、とある大学の語学学校に通うため付属の寮に入っていた。18になったばかり、独り日本の田舎から出てきて初めての寮生活。ひとつの小さな部屋をシェアしていたのがアビーという女の子だ。
アビーはテキサスのカレッジから編入してきた21歳。
人生で初めてのルームメイト、たった3つ上でも当時の自分にはずっと大人に見えた。仲は良かったが人見知りだった私はとくに自分の話をするわけでもなく(そもそも英語を全く話せなかったし)また彼女も物静かな方で、とても心地よい距離感だった。
朝8時から午後4時、高校の延長のようなみっちりとしたスケジュールで英語のレッスン、その後クラスメートと遊ぶわけでもなく、疲れ切って部屋に帰ってきては惰眠を貪る日々が続いた。
ある日ウトウトしていると、アビーが帰ってきた。私を起こさないようにゆっくりとドアを開けると、どこか急いだ様子でジーンズを脱ぎ捨てたと思えばスカートに履き替え、化粧っけの無い顔にアイライナーをさっと足し、最後に何かを振りかけて急ぎ早に出て行く。
まどろむ中でふわりと一瞬良い香りが漂った。それからアビーはよく夜に外出するようになった。
ふとアビーの棚を見るとヴィクトリアシークレットの紫色のボディースプレーが置かれていて、それがいつも夕方に漂う良い香りの正体だと知った。ピーチのような、フローラルのような、みずみずしい香り。Love Spell(ラブスペル)というフレグランスだった。
男手に育てられた私は女性が、いや誰かが香水をつける様を見たことがなかった。香水を振り撒く姿が、漂う香りも合わせて、何だか、素敵だなと素直に思った。
綺麗な格好で、良い香りで、会いに行っていた人があったのだろう。とにかく綺麗で大人で遠い気がした。もし自分に姉がいたらこんな気持ちになったのかもしれない。
貸して、と言う勇気もこっそり使う気も無かったので、クラスが終わった後部屋でなくモールのヴィクトリアシークレットに直行。黒とピンクの内装に、ランジェリーコーナーの奥、壁の端から端まで埋め尽くされたカラフルな香水たち。
自分も何か欲しくて手当たり次第にフレグランスを試したけれど、やっぱりLove Spellが一番だなと思った。憧れの、お姉さんの香り。
深夜12時。
どこか気まずそうに帰ってくるアビーからその香りは漂ってこなかった。薄いボディースプレーは肌に残らない。
Love Spell = 「恋のおまじない」はシンデレラの魔法のように12時前に切れてしまうようだ。もしかしたら、相手も寮に住んでいたのかもしれない。なんとも純粋な二人の逢瀬だ。
時は流れ2020年、ヴィクトリアシークレットが経営破綻。
ふと紫のフレグランスが頭を、鼻先をかすめ、あの香りはまだあるのかと久々にストアへ向かった。そこには昔よりずっとシンプルでお洒落なボトルのLove Spellがあった。
期待に胸を踊らせテスターのキャップを外すと 、アビーの姿が、18歳の自分が、一気に流れ込む。そして香りは、記憶にあるよりもはるかにチープで、けど可愛らしくて、そのままの美しさだった。アビーと一緒に過ごしたのはたったの2ヶ月。それでも心の片隅に残っている大事な思い出だ。
無造作に投げられたジーンズ、ジャケット、山積みの教科書、スニーカー、よれた彼女のアイライナー、香水。いつでもあの小さな寮の部屋がまぶたに浮かぶ。
つい最近のこと、フェイスブックで見覚えがある顔からフレンドリクエストがあった。
アビーだ。ただ一つ違うのは彼女のラストネーム
カレッジで知り合った男性と結婚した、という旨の投稿を見つけた。
もしかしたらアビーのかけた恋のおまじないは、あれからずっと続いているのかもしれない。
(https://www.victoriassecret.com/us/)
Victoria's Secret - Love Spell